それでも

生きていくのってむずかしい。

幸福

将来の夢がない、っていう記事を書いた。

いまもこれといった将来の夢はないけど、自分の未来が、広い家で動物を飼ってしあわせに過ごしているといいなあと思う。


そもそも、私がしあわせだと思うことは


何も不安なく快適な睡眠が取れる

おいしいと思うものを適量食べる


まずこのふたつが最低限必要。

そこから、好きな服を着るとか、好きなアーティストの曲を聴くとか、好きなグループのライブに行くとか、そういったしあわせが続く。


よく、結婚と出産は女のしあわせって言われるし、信じ込んでたわけじゃないけど漠然と子どもの頃は自分の未来もそうなるものなんだって思ってた。というか、そうならなきゃいけないんだって思ってた。そして、自分の子どもには自分と同じ思いは絶対させたくないって同時に思ってた時期もある。


いま思うと、なんで未来を強制されてるんだろうとしか思わない。

そして今は、もし自分が子どもを設けたとしても高確率で自分と同じ思いをさせてしまうし、もし同じ思いをさせないとしても、そのためには今まで以上に自分自身ががんばらないといけないっていうことに気付いた。

その時に思った。誰かのために生きるのはもうやめよう。自分のために生きよう。って。


反出生主義ってことばを知った10代の頃は、私はこれかもしれないって思ったこともあった。よくよく考えると、私が子どもを設けるということが双方もしくは片方がしあわせになれない可能性があるだけで、結婚相手によっては全員しあわせに生きることができる可能性だってある。でも私はもうがんばりたくない。子どものためには少なくともがんばらなくちゃいけないっていう思いがあるから、私は自分に子どもを設けたくないだけで、たとえば他人が子どもを設けるのはべつにいいと思う。少なくとも、少なくとも子どもにはしあわせに生きてほしい。だけど、そのために大人がしあわせを削らないといけないっていうのも間違ってると私は思う。全員がしあわせに生きることのできる世界なんてないのかもしれない。誰かががんばらないといけないのかもしれない。がんばらないといけない人をまわりが決める必要はない。自分で自分のしあわせを削るのは自由だけど、他人のしあわせを勝手に削ってはいけない。そんなこと許されてはいけない。たとえ家族であっても。

これが矛盾してるっていうのも自分でよくわかってる。だけど、そう思うことしかできない。無断で私のしあわせを削り続けられて生きてきたから。


実は、結婚も出産もしたくないって言ったら家族に泣かれた。

そんなさみしいこと言わないでよって。

からしたら、さみしいこと言ってるのはどっちだよって思うんだけとね。

やっぱり、家族からも私という個は認識されておらず、女という側面でしか見られていない。世の中の女が当たり前にすることをなぜできないのか。

できないんじゃなくて、しないだけなんだけど、これは負け惜しみになるらしい。

せめて話し合いが出来ればよかったんだけど、私の意見を聞くことはなくあっちの言い分をただひたすら言われて私がそれに反論する場になってしまった。しまいには、育ててあげるから生んで!って言われて、もう絶望しかなかった。生んだあとの心配とかそういうことを言ってるんじゃないのに。それが理解できないみたい。そもそもそんなことをしたら、第二の私ができてしまう。私からしたら最悪のパターンだ。


よくいるよね、話せばわかる!って言う人。私、いままでの人生でたくさん会ってきたし言われてきた。だけど、そういう人ってたいたい、相手が折れる前提だよね。ごめんね偏見だったら。ソースは私。

話し合いって、妥協点を見つける場じゃないのって思うんだけど、どっちが正しくてどっちが間違ってるかを白黒つけるまで終わらない。話してもわかりあえない。なぜなら、どちらも自分のほうが正しいと思っているから。

どちらも正しいんだよ。己が正義なんだよ。正義の反対は悪じゃないって言葉があったじゃん。正義の反対はまた別の正義なんだよ。信じるものがたまたま違っただけなんだよ。


私、人と人はわかりあえないって前提で生きてる。だって別の個体で、完全に信じる正義が同じってなかなかないと思う。似た正義の人とはたまに出会うけど、完全に同じってなかなかない。

これ、前にもどこかで言ったけど、『よく似ている』は『同じ』ではないからね。似ているだけ。

私が世の中のスタンダードだとも思ってないけど、『私のスタンダード』はこれなんだよ。それを、どうにかして捻じ曲げようとする正義感を持った人がいる。それはあなたのスタンダードでしょう、って言ってもこれが世の中のスタンダードだから!って言われる。世の中のスタンダードなんて誰が決めたんだ。憲法に書いてある?法律に書いてある?

私も、自分の生命を脅かされると黙っちゃいられないから反論なり抵抗なりする。そうすると相手の正義に反抗することになる。そうなると、相手は私を悪だとみなす。

違う、ってなんでわからないんだろう。


たとえば私に好きなものがあるとしよう。なんでもいいや。たとえば私がトマトが好きだとしよう。トマトが嫌いな人がいたとする。別にその人がトマトを嫌いでも私はどうでもいい。だけどたまに「トマトが好きなんて頭おかしい!」ってわざわざ言いにくる人がいる。そうなったら逆に私とは別のトマトが好きな人が「トマト嫌いなんて人生損してる!」って言うとする。

もう、泥沼だよね。

正直、どうでもいい。トマト好きでも嫌いでも、死にゃしないし。

そんな感じ。

なんでほっといてくれないんだろう。あなたはトマトが嫌いなんだー、ふーん。私はトマト好きだよー。程度の話。

逆に相手にトマト食べなよ!!!!!!ってウザ絡みするつもりもないし。いいじゃん嫌いでも。


私の正義に賛同してもらおうとも思ってない。賛同しなければならない決まりはどこにもないし。

話し合いであれば、妥協点は見つけたい。だけど、お前とは妥協点すら見つけたくねえよって相手もいるし、必死に妥協点を見つけたけどどうしても折れることができなかったこともある。


結婚と出産に関しては完全にそれ。私が自分のスタンダードや正義を捨てれば、すぐにでもできる。自分を隠して、捨てて生きていけば、すぐにでもできる。本当だよ。負け惜しみでもなんでもない。こちとらアダルトチルドレンだぞ?求められた役割なんて瞬時に理解してその通り動けるわ!やりたくないことをやればいいんでしょ?できるよ。でも、やりたくないだけ。そこに私のしあわせがないから。